詩人・ヘルダーリン(ドイツ) ☆ 生の半ばで『生のなかば』に親しむ ☆
■酷暑の夏に、涼しい秋を想ってみる
そういえば以前、仕事の関係で百人一首をカジる機会がありました。高校時代に勉強して以来、あまり顧みる機会もなく…、詳細は記憶のかなた。今は小4で初出するらしいですね。中学生も、映画の影響で盛り上がっていたりして…。
小学生低学年でも、上に兄弟がいたり、児童クラブに通う子たちは、軽く触れる場合があります。こんなものがあるんだなーという程度ですが。
冷や汗かきながら、易しい解説書でざっくり捉えてみました。
様々な技巧を凝らしながらも、風景に寄り添い、自然の姿に心を託す素朴な表現者の姿が浮かび上がります。虚飾と虚栄に満ちた人間関係を背景にしながらも、ありのままの人間性を変幻自在に詠みこんでいく。多いのは恋の歌ですが、秋の寂しさに関する歌も印象的。
秋を詠みこんだ歌が好き。
晩秋生まれのカジユア。
暑い夏が終わり、秋が来て、冬が目前に迫るとき、人々は、人生や言葉の神秘にめぐり合いやすくなるのでしょうか。移りゆく季節の中で、とりわけ秋の姿に魅了されるのは日本人だけではないようです。
例えば、晩秋の詩「生のなかば」で有名なドイツの詩人・ヘルダーリン。深まる秋の姿に魅了されながら、やがて来る冬の厳しさを痛ましく感受するようすを、美しい詩句で綴っています。なぜこの詩が、世界的に各方面からの研究対象になり続けるのでしょうか。
■ヘルダーリンはこんなひと
1770年にドイツの小さな町に生まれた。幼少時に父死去。母と新しい父とともに小都市に移住。青年期は神学校に入学し、ヘーゲルやシェリングたちと知り合う。卒業後は生活のために、有力者の邸宅に住み込みで働く家庭教師に。2つ目の仕事先で教え子の母に恋をする。このことが詩作の大きなきっかけになる。作品は、神話などを足場として、理想の美を貫徹する天上的な詩や小説。生前は評価されなかったが、のちにドイツ文学史に残る大作とされた。家庭教師の仕事は長続きせず、場所を転々とし、後半生は精神のバランスを崩した。それでも創作を続けるが、最終的に回復見込みなしとの診断を受け、愛読者の家具職人の家に引き取られた。1843年死去。案外長生き。
■ヘルダーリン「生のなかば」を読んでみよう。
「生のなかば」
黄色い梨を実らせ
野薔薇を一杯に咲かせて
陸が湖のなかに垂れている。
優しい白鳥たちよ
口づけに酔い痴れながら
おまえらは頭を浸す
聖らかに醒めた水の中へと。
悲しいかな、私はどこで摘んだらいいというのか
もし冬になったならば、花々と
日の光と
大地の影を?
壁が言葉もなく
冷たいままに立ちつくし、風にふかれて
風見がなりきしむ。
『生のなかば ヘルダーリン詩学にまつわる試論』 ヴィンフリート・メニングハウス 作
竹峰義和 訳 月曜社 より
読後に、錆びた風見鶏の乾いた音が心もとなく響きます。ありありと心にせまる風景。ヘルダーリンは、この短詩のうちに、神話の神々の姿を密かに埋め込み、美の高みに上り詰めます。和歌のように、「自然との一体感」という感じではなく、凝縮された精神や思想から生まれた風景のように、どこか硬く、あくまで「人間(自我)」が主軸にあるように思えます。ドイツ人ならでは、なのでしょうか。
この詩は、人生後半の転換期における危機に関連付けて議論される場合もあるようです。しかし、彼は青春時代から「冬」の厳しさを先取りする形で、現実生活の苦悩と理想の美の間でもがいていました。そして、ついに迫ってくる冬。この場所に来るまで、何もなしえていない自分を突き放したように見つめ、同時に現実の自然とは少し違う階層の美世界を創ったわけです。
では、ヘルダーリンの詩をもうひとつ。
「私が子供だった時」 (一部紹介)
私が子供だった時
神がよく助けてくれた
人間たちの罵声としもとから。
そこで私はのびのびと遊んだ
森の花々と。
そして大空にそよぐ風も
私と遊んでくれた。
草や木があなたに向かって
あえかな腕を伸ばす時
その草木の心を
楽しませてやったように
(略)
あの頃は たしかにまだ
私は名では呼ばなかったし
神々も私の名を呼びはしなかった
人間たちが知り合って 名を呼ぶようには。
(略)
神々の腕の中で 私は大きくなった。
(※しもと=漢字は竹冠の下に台=厳しい戒め)
その他参照*『詩に誘われて』 柴田翔 ちくまプリマ―
どうでしょう。『私が子供だったとき』ヘルダーリン。
突飛な連想ですが、ユーミンの『やさしさに包まれて』という歌の冒頭に似ています。ヘルダーリンの詩に対するアンサーソング(なわけないですが)として聴くと、まさに、やさしさに包まれてしまいます。だって、ユーミンの方は「おとなになっても奇跡は起こる」のですものね♪ そして、「目に映るすべてのことはメッセージ」ということが日々、実感できたなら、果てしない充足感があるでしょう。
カジユアは、あてもなく、そこらへんを目指しているのかな。
うろうろ、カジカジ…。